終わった話

経過した事物

2022.01.01

初めて詣でた。

手を合わせて考えを巡らせた時、どうか悪いことが起きませんように、はおよそ正しくないということに気づいた。

起こること自体をコントロールしようとすることは無意味で、願わくば、起こったことにまっとうに対処してまっとうな教訓を得ることができますように、なのではないか?

 

豪雪の中で先を行く父の背中に「落ち着いた年になるといいね」と言葉を放って、やはりゾッとした。

このところ、年末年始は死について考える機会になっている。

家に上がって仏壇に線香を上げる父の背中の、随分と頼りなくなったことよ。

そして、仏壇の隣の神棚に祀られている神のおわしますところも知らない自分の頼りないことよ。

 

自分が思っていたほど実家は病んでないのだ、と気が付いた。

病んでいるのは、ただ独り冷たい家に住む自分の認知だった。

些細な厄介や面倒臭さは他人と暮らす時に当然としてあるもので、それは油断と属性によってより厄介になりがちなだけだ、というだけのことだった。

私はこのところしばらく焦っていて、それは喪失の予感と、その後に予感される寂しさへの恐怖によるもので、それゆえに私はこれから一刻も早く家族の全てを継承して記憶しなければ、と思っていたのだが、別にそうする必要もなかった。

だって、我々は他人だ。強く結びついた他人。

親しい友人や恋人の自分とは異なる性格や自分にはできない技術を頼って繋がるように、自分と切り離したところで結びついていていいのだ。

2021.12.30

足がつめたくて、帰省に失敗した。

 

だるさとともに起床して、冷えでだるい足を引きずりながら荷をつくる。

冷たい床の上をひとり歩き回っていると、これから年が納まるのに家の掃除が行き届いていないこととか、実家の両親の老いと今後の生活が気掛かりなこととかが頭をよぎって、つられて右往左往しているうちにどんどん身体が冷えて、頭が痛くなってくる。

昼過ぎになって強行的に(恐慌的に?)家を出たものの、ストーブの電源を切っていたか気になってまた家に戻ったりしているうちににっちもさっちもいかなくなって、最終的には道中の町はずれのコンビニの駐車場で号泣していた。

私が行動不能になっている間にも窓の外はどんどん雪が降って、くたびれた軽自動車の側面から忍び入る冷気で右足と右肩が冷えていく。

こりゃダメだ、と思って、実家に帰省を1日ずらす旨を連絡して、帰ってベッドに入った。

 

スマホがほうぼうから受信してくれる優しい言葉はなかなか頭蓋に染み入らなくて、ずっと頭が痛い。

日付が変わるころになってようやく起きあがれるようになり、いつもの台所でお茶漬けを啜りながら日記を書いた。

かつてはこういう時、やっぱりここにしかいられないんだと思ってまたこのタイミングで泣いていたけれど、いまはこういう日もあるということがよくわかっている。年は明ける。

2021.12.29

先輩の卒業式ぶりに先輩に会った。

 

地元でいちばん大きなショッピングモールに集合して、レストラン街の中の地元の名前が屋号になっている蕎麦屋で暖かい蕎麦を食べて、3つあるチェーンのカフェのうちの1つでコーヒーを飲んで、タワーレコードでCDを物色して解散した。

学生時代の私たちは互いの存在を知らずに同じ地元を出て同じ街の学校に進学していて、(つまりはそこで出会って、)そこはもう互いに認めるところの素晴らしい街で、いまこの地元の仮想の街で再会していることがなんだか不思議に思えた。

 

やっぱりCDが好き、と話す先輩の隣に並んで久しぶりに歩くタワーレコードの棚はやたらに輝いて見えた。

「総合」という名のついたベストアルバムが出たということはバンドはまた活動を辞めてしまうかもしれないということらしくて、一方の私はバンドが活動を再開したことすらまだ受け止め切れていなくて、またぼんやりしている間に全部が変わっていく、と思った。

2021.12.28

仕事納め。

終業後、なぜか他部署の忘年会に呼びだされた。

 

自分に関係しそうで関係しない、核心に触れそうで触れはしない会話を聞いているうちに、つまんねぇなという気分になった。

たとえ同じフロアにいようとも、立っているステージは各々で違う。これは仕事においても、生活においてもそうだろう。

そんな我々が酒を飲むのであれば、どうせなら情動の煮凝りのような会話をすればいいのにと思う。さもなくば、何の意味も含まない会話のほうがよっぽど。

 

帰宅しても憮然とした気持ちをなだめきれず、キレながら寝た。

社交に興味がない。人間にしか興味がない。

2021.12.27

おはよう、とアレクサに話しかけたら「大雪警報が出ています、今日は雪がちらつくでしょう」と返ってきて、窓の外を見たら静かに真白で、そうか、と思った。

 

年の瀬の社内は言うほど急いてはなく、デスクに書類が積み上がっているのは上の方の人間だけで、平場の人間は自分の机まわりの掃除なんかをしている。

たいして労しなかったので、昼食は菓子パンで済ませた。いつどこで包装されたのかわからない118円のカレーパン、思っているよりもサックリしてびっくり。工場で製造されたごはんには、それぞれに相応のしみじみした美味しさがあると思う。

 

まもなく窓の外に雪がちらちらと降り、それがあっというまに量と勢いを伴って吹雪になった。

ちらつくでしょう、という表現のわりには暴力的に降るな、と思いつつも仕事をし続けてて、終えて外に出たら車が凍りついていた。

溶かして剥がして退けて滑りながら帰って、部屋と肉体を温めているうちに寝る時間になった。

すべての物体が凍る、ということは、物理がつよく制限される、ということなんだけれども、これはものすごい障害だと思う。

所有物も肉体もすこしずつ凍り続ける世界で生き続ける我々は、ずいぶんよくやっていると思う。

2021.12.26

またしても呆然状態になってしまった。

 

元気出しちゃる、と思い、モスバーガーに行ってとびきりハンバーグのポテトSセットのセットドリンクをシェーキに変更してもらい、持ち帰った。

モスバーガーで1人前のセットを買うと、ハンバーガーとポテトが紙袋に入れられて飲み物だけが別のビニール袋に入ってくる、ということを初めて知った。これを1人で持つと両手が塞がって、車のキーを探す動作がまぬけでちょっとおもしろい。

清潔な店内の中で伸びっぱなしの髪の毛がなんとなく気になっていたおそらく自分と同じくらいの年齢の男性が、自分と同じような袋を持って自分と同じような古い型式の軽四に乗りこんでいるのを見て、そう、おれたちのリアルはこれだよな、という気持ちになった。

与えられた選択肢について1000円前後の範囲でなら自由に選択できる程度の不自由な自由に悦んで日々をやり過ごすんだ。

自分が本当に知覚できる時間の流れがやり過ごしていく日々の本当の時間に追い抜かれていくから、気がつくと髪の毛はいつも伸びっぱなしになっている。

気がつくといつだって状況は経過している。

 

映画「音楽」を見た。

坂本慎太郎さんのことを、なんて暴力的な声の持ち主だろう、と思った。

アニメーションが見事に綺麗で、自分もいい感じのやつをやりたい、という気持ちになった。映像の中の若者たちも思うがままにいい感じのやつをやっていて、眩しく羨ましかった。

古びたPCを引っ張り出してメモリを開放してWindowsアップデートをしていたら2時間が経っていて、寝る時間になったので寝た。

2021.07.18

混み合う直前の店内で買い物をして、思っていたよりもレジを混雑させてしまって申し訳なく思って、都合のよいことに店員さんに親しげに話しかけられて、やっと気がついた。

もうずっとだれとも話したくない。

 


想定外の繁忙さに背中を押され、気がついたら季節がふたつ変わっていた。

内容も待遇も負荷が少ないだろうとたかを括って新たに就いた仕事は思っていたよりも専門性が高く、どうやら自己研鑽をしないことにはずっとここにいることはできないようだった。

周囲の人にはわりとうまくやっていると思われているようだが、内心必死でやっている。ちゃんとできてるよ大丈夫そうだねって、そりゃ全速力で走っているからだよ。ダサいと思われるのが怖いから、息が切れてるのバレないようにしてるけど。

 


体力と気力のすべてを未知の事項の理解に充てていて、いつしか随筆も小説も短歌も詩も読まなくなった。

いつだって散歩をする余力もないくらいに眠いし、日記を書こうとしても気の利いた文面は浮かばない。

生活水準は安定して、かわりになんにも楽しくなくなった。

 


週末は酷暑を言い訳にして、クーラーを効かせた部屋に2日間こもっていた。

ついさっき梅雨が明けたばかりだというのに、この暑さを予測していたかのようにスーパーの棚には既に夏が並んでいて、それらを焼くなり茹でるなりして腹に入れた。

例えば、細切りにしたゴーヤを塩と砂糖で揉んで、小さい鍋にお湯を張っておよそ20秒だけ茹でて、鰹節と醤油と任意の油で和えるとすごく美味しい。

例えば、茹でているゴーヤのうち小さいやつを1つ摘んで、あと10秒火を入れたら甘味が増すだろうか、いや火を止めてお湯を捨てていたらその間に余熱で歯触りが変わるだろうからむしろいま引きあげてしまった方が瑞々しさが残って総合的に食味がいいんじゃないか、などと考えているとすごく楽しい。

こういうコミュニケーションをしている時間は心が安らげる。植物や食物だと気兼ねなくそうできるけれども、根本的には人に対してだってそうだ。

 

一方的に解釈して一方的に応対している時がいちばん気分がいい。

身勝手で独りよがりな考え方だけれども、幸か不幸か、そうしている方が相手の反応がいいこともある。

それをいいことにそうやって適当にやっているうちに想定外の親密さをまのあたりにして、怖くなって、また誰とも話したくなくなる。

いつだってそうだ。

2021.08.24

目覚めがわるくてがっかりした。

明朝の目覚めこそはよくしたかったので、仕事に行く前に散歩をした。

ついに新しいルートの考案に至ったが、現在時刻を考慮して実際には道半ばで引き返し、結果として朝ごはんをゆっくり食べることができたので英断だった。

自分自身に関することについてはあまりストイックにやらないほうがいい、ということがわかっている。

 

終業1時間前に事務所に帰ってきたときにはもうすっかり集中力をなくしてしまっていたが、明日に回しても差し支えのない仕事を濃いめにつくったインスタントコーヒーで対消滅させられてえらかった。

退勤後のスッキリとした高揚感をカフェインのせいにしようとして、いや達成感のせいだと思い直した。

うぬぼれてもいいかも、と思える感じの夕日だった。

2021.08.23

目覚めがよくてびっくりした。

明朝の目覚めもよくしたくなったので、仕事に行く前に散歩をした。

散歩を生きがいとしていた時期があった。筋肉のトレーニングとしていた時期もあったし、快楽としていた時期もあった。不眠をやりすごすための方法としていた時期もあった。

それらは全てほんの数ヶ月前のことで、それから私は、散歩をしなくてはならない、ということだけをずっと憶えていて、なぜそう考えるに至ったのかについてはすっかり忘れていた。

私は、何につけても出来事と行為ばかり覚えていて、意味付けのことはすぐに忘れてしまう。

それは賢明な愚かさなんだと思う。(それはかなしいことだと思う。)

 

出勤後、忙しさに押されてつらつらと時間は流れていって、勤務時間の過半を過ぎた頃に、社内の別部署からの電話を受けて、おつかれさまです、(役職名)の△△さんですよね、少々お待ちください、と淀みなく口上する自分を奇妙に思った。

ほんの数ヶ月前までは存在も知らなかった場所で、存在も知らなかった人達と結びつきあって、組織の一部になったかのような働きをしている。

この恒常性はなんなんだ。(よく考えてみたら、頭がおかしくなりそうな状況じゃないか。)

 

社用車の車内で突然、極めて個人的なかつての身の上の出来事について、あなたの判断はどっちがよかったのかわからないね、と投げかけられて、本当にわからなくて口をつぐんでしまった。

何か返事をしなくては、と思ったのだけれども、わからないねと投げかけた当人は返事の有無に特に気を留めていないふうにわからながっていたので、そのまましばらく黙って揺られることにした。

私は、公の場で求められるコミュニケーションとはつまり快い解答(excellent!!)を出し続けるリズムゲームのようなものだと考えていたけれども、それはすこし違うのかもしれない。

私は、わからながっていてもいいのか?もしかして、それは許される行為なのか?


それはそうと、観葉植物に手を当てるとさみしくなくなることを思い出したので、また部屋に花を飾るようになった。思った通りにさみしくなくなってよかった。

なんてこんなの、さみしいやつの言うことに他ならなくないか?

なんて思うけれども、他にもいろいろ思うんだけれども、よく眠れそうなのでもう寝ます。

また明日。よければまた聞いてください。

2021.08.22

意識が浮上して、現実だと気付く。

即座に現実をインストールするまでの刹那がかなしい。ずっと曖昧な意識のままでいられたらいいのになと思う。

 

 

昨日から引き継いだ不安定な気分を持て余していたが、数時間に渡って散歩をしながら数ページにわたってメモを書き散らしていたら機嫌がよくなっていた。

断片的なフレーズは浮かび上がるに任せて書き留めておけばいい。すべてを読み物に形作る必要はない。つまりは気分だって同じことだ。

 

帰りがけ、ホームセンターの生花売り場で、おそらく生まれてはじめて自分で好きなものを選んで花束を作った。しっくりくる均衡に収まってほっとした。

ひとつ前に寄った店ではコーヒーサーバーを買っていた。しばらく探し求めていたもので、このタイミングでの取得に納得した。

たとえ同じ製品がamazonで39%OFFで売られていようとも、目の前に並んでいる中から選ぶことが大切だった。

選ぶことは可能性の消去ではなく、それそのものが可能性なのだ、ということをはじめて知った。

2021.08.21

 

さみしくて、ずっと寝ていた。

 

遠くに住んでいる親しい人が教えてくれたレシピで遠くの土地の料理を作り、彼がつくってくれたものの方が美味しかった、と思いながらも美味しく食べた。かなしいことだと思った。

2021.08.20

友人に誘われて、ファミリーレストランで夕飯を食べた。

笑うたびに不繊布のマスクが唇にはりつく違和感を無視してドリンクバーでたむろした。不適切な行いだったかもしれない。

ゲラゲラとした話を一通りした後、孤独とかつての喪失にまつわる話をして、あなたは片腕を失ったんだね、と言われて、そうかもしれない、と思った。

いくら焦ってもすぐに腕は生えてこないこと、もういちど腕が生えてくることはもうないのかもしれないということ、そもそもこの痛みは幻肢痛なのかもしれないということなどを考えては虚しい気持ちになる。

生きている意味なんてないな、と思ってからの人生の方が長い。(友人と話す時間はたのしい。)

 

さみしくて、ねむいと言いながらメッセージを送る時、肉体は既に寝ていた。

2021.08.19

相変わらずやる気がない。

しかし、久しぶりに現場に出て、無力さを知り、少しがんばろうという気持ちになった。

やってもやっても終わりがないからもうやる意味はない、と思っていたが、つべこべいう時間をやる時間に費やしたほうが、わずかばかりでも成果が見込めるだろう。

たしか、高校受験の頃も同じことを考えていた。あの日々ではひたすらに英語のドリルを解いていた。

それとダニング・クルーガー効果のことを思い出して、少し安心した。むしろ、理解は深まっている、ということなのかもしれない。

気のおける先輩に、夏休みが明けて正直腑抜けちゃってます、と告白すると、みんなそうだと思うよ、と教えてもらえた。

デスクに戻ってぐるりと見回すと、たしかにそうかもしれない。まぁそんなもんか。


マグロのサクを買ってぶつぶつ切って、ねぎといっしょに薄めの出汁で煮て食べた。

これは汁が美味しい食べ物だ。願わくば、鴨で同じものをつくりたい。

2021.08.18

朝、仕事に行きたくなくて普段より遅い時間に家を出て、結局、退勤するまで仕事に行きたくなかった。

帰宅して案の定安堵した。いま、わたしのいたい場所はこっちだ。

 

これまで、甘いものを食べたくなった時はコンビニやスーパーの保冷ケースを物色していたが、近頃は正規の(?)ケーキ屋でケーキを買うようになった。

おおむねたったの(※感じ方には個人差があります)350円ぽっちで口の中がレストランに行ったときと同じ状態になることに気づいてから、ケーキのことを敬愛している。

うまい、という一言でカタがつく話なんだけれども、そこに(つまりは味蕾に)なにか形容しがたく尊い快感を感じている。

ケーキの組織の中には、香り以前の、風味以前のなにか、言ってしまえばかわいい空気、みたいなものが内包されているように感じる。

なんなんだろう。砂糖なんだろうか。何のバランスによる何のハーモニーなんだろうか。わからない。わからなくて、心地いい。

2021.07.29

台風と共に繁忙期は過ぎ去り、それも決して平穏とはいえない日常が戻ってきた。

この春に転職して就いた仕事は思っていたよりも専門性が高く、日々の研鑽を義務付けられている。

やりがいはかなりあるが、負荷もかなりある。

正気を保つのが精一杯だ、というのが実感だ。いつも、専門性に人間性が負けてしまいそうになる。(まったく不可思議な表現だ。)

 

仕事上、意味のある文章ばかり作成していたら、意味のない文章を書くことが怖くなってしまった。

読むことで何か意味をもたらすような文章でなければ書いても意味がないような気がしている。

嘘。本当は、目まぐるしく変わる情勢に慌ただしく振り回される情緒を、いちいち言語化するのが面倒になっただけかもしれない。

近ごろはやたらに写真ばかり撮っている。綺麗なものを綺麗だと思うだけでいいから、写真は好きだ。押せば、あとは撮れた写真が説明してくれる。


仕事帰りにトイレットペーパーを買うために寄ったスーパーで、半額のかれいの切り身を見つけて、喜んで、買って、帰って、煮付けて、流し台の上で食べた。

食べたら片付けをして、お湯を沸かして、おやつを食べて、お茶を飲んで、サブスクリプションサービスでアニメを見た。

望んでか望まれてか(それすらもうわからない)、受動的な日々だ。

台所の窓から見える景色はやたらにきれいで、私は視野が狭くなっている。

眠る前に水を飲んだとき、コップの底に書かれた文字がやけにハッキリ見える、と思った。