終わった話

経過した事物

2022.01.01

初めて詣でた。

手を合わせて考えを巡らせた時、どうか悪いことが起きませんように、はおよそ正しくないということに気づいた。

起こること自体をコントロールしようとすることは無意味で、願わくば、起こったことにまっとうに対処してまっとうな教訓を得ることができますように、なのではないか?

 

豪雪の中で先を行く父の背中に「落ち着いた年になるといいね」と言葉を放って、やはりゾッとした。

このところ、年末年始は死について考える機会になっている。

家に上がって仏壇に線香を上げる父の背中の、随分と頼りなくなったことよ。

そして、仏壇の隣の神棚に祀られている神のおわしますところも知らない自分の頼りないことよ。

 

自分が思っていたほど実家は病んでないのだ、と気が付いた。

病んでいるのは、ただ独り冷たい家に住む自分の認知だった。

些細な厄介や面倒臭さは他人と暮らす時に当然としてあるもので、それは油断と属性によってより厄介になりがちなだけだ、というだけのことだった。

私はこのところしばらく焦っていて、それは喪失の予感と、その後に予感される寂しさへの恐怖によるもので、それゆえに私はこれから一刻も早く家族の全てを継承して記憶しなければ、と思っていたのだが、別にそうする必要もなかった。

だって、我々は他人だ。強く結びついた他人。

親しい友人や恋人の自分とは異なる性格や自分にはできない技術を頼って繋がるように、自分と切り離したところで結びついていていいのだ。