終わった話

経過した事物

2021.01.11

ひとり暮らしは生活の残渣がハッキリと見えるところが残酷だ。

落ちてる髪の毛は消えないし、飛んだ水滴は残さず水垢になるし、野菜は食べないと腐っていく。

自分自身や自分にとっての過不足が可視化される。

手の届かないところにはずっと手が及ばないのだ、ということをむざむざと見せつけられる。


明日から仕事がはじまるので、身の回りの整理をして過ごした。

具体的には、公共料金の支払いや、図書館への本の返却や、灯油の買い足しなど。

生活の基盤を整え直すことで久しぶりの仕事に対する緊張を落ち着けたかったが、夕方になっても依然としてソワソワしている。

やはり、職場のことは職場に行かないことにはどうにもならないだろう。


自炊のやり方を忘れてしまいました、という態度でロクに何も食べずにいたが、土鍋を出して包丁を握ってみたら何も考えなくてもあっという間に鍋ができた。

味もいつかのとおりに美味しくて、しかしひとりで食べるのはぜんぜんつまらなくて味気なくて、舌と脳のギャップに笑ってしまった。なんだこれ。

食べるのもそこそこにこたつに寝転がってYouTubeを見ているとその姿勢が妙にしっくりきて、こんなもんか、と思う。

 

いまの生活を、さみしさの羊水に浸っているようなものだ、と思った。

さみしさを肺に入れて吐き出してを繰り返していれば、何にも侵されずに呼吸していられる。

それでもここのところ、胎内で腐るよりは事故で死ぬほうがマシかもしれないと思うようになってきている。

だって、この世にはまだ知らないすごくおもしろいコースがあるかもしれないし、たとえそこで死んだとしてもまたここに戻ってくるだけなのだから。

胎の中を探るのはこのくらいにして、ゆっくりでいいから外に出てみたい。