終わった話

経過した事物

2021.03.17

ここ数日、独り言がひどい。

脳から口へと通じるパイプが常時開になっていて、自宅でも職場でも帰りに寄ったコンビニでも、意図せずに言葉が漏れ出てしまっている。

脳のメモリが容量オーバーだ。赤ランプ点灯、危険。

 

繁忙する業務と新生活の準備を並行して処理していて、混乱(あるいは混沌)の状態にある。

新たな指示や情報が入ってくるたびに、頭の中に勝手に選択肢が浮かんで勝手に箇条書きされていく。

それらをすべて書き出してアウトラインをつくって順番に1つずつ処理していけば理論上クリアできる、ということはわかっているけれども、私という装置は有機体であり、無尽蔵に処理を行えるハイスペックコンピューターではない。

そして、自動操縦モードのままに運用していると予期せぬタイミングでフリーズして落ちる羽目になる、ということを学習している。

実際、そのようにしてやりこなしていた時期のメモなどを見返すと、どうしてやりこなせたのかが思い出せないことが多い。回路が焼き切れて、記憶が飛んでしまっている。熱暴走の痕だけは残っている。

これ以上マシンの寿命を縮めたくはない。持続可能な運用を心がけたい。

なので、今はなるべく手数が少なくて無理のない選択肢をとる方向性でいこうと思う。

結果に対するリカバリが必要になったら、そのときはメモリに余裕ができたタイミングで修復プログラムを実行します。たぶん。

 

どうにかして筐体を冷やしたくて、『電気グルーヴYouTube Music TV』のアシッドハウス編を観ながら時間をかけてゆっくりと夕飯を食べた。

卓球さんは博識で、ジャンルの変遷についてエピソードを織り交ぜながら時系列を追って伝えてくれてありがたい。

父が好んで聴いていた80'sの音楽のシーンをいまになって知ることができて嬉しかった。

かつて、父が中古ショップからやたらに買ってくるビカビカしたグラフィックにデカデカと『ディスコ・ヒット』と書かれたジャケットのCDを延々と車中で聴かされていた頃から、クラブミュージックに興味を持つ運命は定められていたのかもしれない。

シンセサイザーの音にやたらに反応する自分はテクノが好きなんだとばかり思っていたけれども、近ごろは発掘の対象が広がってうれしい。

どうせ同じ時間を過ごすなら、手持ちの選択肢を延々と検討し続けることに時間を使うよりも、興味のある物事について考えたり感じたりしながら過ごしていたいなと思う。