終わった話

経過した事物

2021.03.11

風が止んで、朝は万物が静止している。

直立不動で佇む木々の1本1本が御神木のような威厳を出していた。

朝の万物はすべてが等しく照らされているように感じる。その日1日分のあらゆる可能性が付与されているかのような。

いつも浴びている夕方の光よりも朝方の光はいくぶんか温度が低く感じて、それは夕焼けが直接照明であるのに対して朝焼けが間接照明であるからかもしれない。直射と放射。(※描写はイメージです。)

日向も日陰も体感温度の変わらないコンクリートの上を歩いていると、まるでプールの中を浮揚しているかのように錯覚する。

家に帰って玄関を開けると、40分前に自ら確約した未来の結果としての炊きたてのごはんの匂いがただよっていて、あれ、幸福?と思った。

 

日がな一日、悼む日だった。

経たことがわかり、これからも経ることがわかる。

それ以外のことについては正直わからないことも多い。

私は、わからないことを無理にわかる必要はないと思う。

けど、わかってほしいと思われていることはなるべくわかろうとしたいし、自分のわからなさを言い訳にすることはしたくない。

忘れないで、という文字を見るまでもなく、いくら経たとて固有の体感を忘れることは決してないだろうと思っていたが、公有の体験はたしかに苔むすままにやがて風化していってしまう。

いろいろな人の話を聞いて、いろいろと想像した。

想像力は鳥より高く飛ぶというが、根を張るための地面を掘るのもまたよい力の使い方だと思う。