終わった話

経過した事物

2021.03.04

だるい。些細なことで悲しくなるし苛々する。
ほんとうは誰も彼も世界もわるくない。ただだるい。

 

先月の今頃も先々月の今頃も同じような状態になっていて、来月の今頃もきっと同じような状態になっているであろうことが予想される。
同じことの繰り返しをこれからも続ける必要がありますか、と、先月まではこのタイミングで自問していたけれども、いまなら自信を持って「あります」といえる。
なぜなら、まだ散歩に飽きていないから。肉体の限界が来るまで、もっと楽しんでいたいから。
夕方、地球に斜めに差し込む黄色い光とその光に照らされる高いところの枝葉を眺めながら何も考えずに歩いて、とても気持ちがよかった。
近ごろの夕方の光はなんだか秋の快晴ときのそれのようで、季節が倒錯してたのしい。

 

だるすぎて日記なんてとても書けない。
こんな時は書くよりも読もうと思い、詩集や歌集を三角食べするように読んだ。
最果タヒさんの書く詩は句読点の位置が過不足ないのだ、ということに気づいた。人間が声に出して読むときの呼吸のタイミングにピッタリあっている、多分。語弊があるかもしれないけれども、まるで唾液のようなテクスチャーだ。はじめから自分のものであったかのように口に馴染む音節。噛み砕いているはずなのに吐き出されていくかのような言葉。
恩師から小林秀雄さんの『美を求める心』という文章を薦められて、それも読んだ。
絵や音楽や言葉の「姿」を見ることについての論説が示されていた。もしもこの文章を読んでいる人の中にそういったなにかしらの芸術に親しんでいる人がいたら、これはかなりの重要文書だと思います。お薦めです。

締めの言葉すら出てこない。以上です。