終わった話

経過した事物

2021.02.10

冬の仕事着はフリースを着ていて、お金がないし無頓着なので2着を洗い回して運用している。

今朝、昨日洗濯したはずのフリースに一昨日会った猫の毛がついていて、よう、と思った。

いま私の目の前にはいないが、あの猫はきっとこの瞬間もどこかを歩いたり誰かに撫でてもらったりストーブに当たったりして生きているんだろう。

たとえば猫を飼う、つまり自分とは別の生き物と暮らすということは、四六時中こういう他者の存在への想像のトリガーを持ちながら過ごすということで、それは素敵なさみしさかもしれないなと思った。

近頃あまり言っていないけれども、いってらっしゃいという言葉は無責任で、やるせなくて、信じるしかなくて、祈りで、いいよな。

 

祝前日の高揚感とは裏腹に、身体はバイオリズム的に落ち着いている。

というより、わりとローだ。なぜか不規則にお腹が痛くなり、謎の嘔気も伴う。

仕事をこなして帰宅すると出勤時に期待していたよりもぐったりした状態になっていた。

あつめのシャワーと掃除のルーティンでニュートラルな状態に持っていく。

せっかくの夜をはしゃぎたい気持ちはあったが、無理に酒など飲まずにいつもどおり夕飯を食べて、ケーキを焼いて音楽を聴いて過ごした。

折坂悠太さんがインスタライブでアンビエントの音作りを配信していて、ポエトリーリーディングをしたときのキマり具合が最高で、やっぱり音読っていいなぁと思う。

 

友だちが音読する声とか、書いた作文とか、描いた絵とか、義務教育を終えるとあまり触れられなくなってしまうけど、いまでもそういうものに囲まれていたらきっと楽しいだろうなと思う。

いろんなSNSを追ってしまうけど、結局求めているのはそれの代替のような気がする。

大人になったみんながつくるもの、なんでもいいから見たいなぁ。わたしが暇なだけかな。