終わった話

経過した事物

2021.02.07

年の近い同僚ふたりとランチをして、家で桃鉄をして遊んだ。

休日に職場の外で職場の人と会うことについてやや緊張していたが、なんのことはなく、リラックスした時間を過ごすことができた。

流石、人間を育てる現場で働く方々は人間ができているな、と思う。勘違いかもしれないが、互いを自然に褒め合う文化があるような気がする。肯定で回る組織をはじめて見たので日々驚いている。大変な仕事だからこそ、ポジティブを意識するのかもしれない。理由はどうあれ、他者を肯定することはいいことだと思う。肯定されていやな気分になる人はなかなかいない。いい気分でいるだけで発生を防げる問題って沢山あると思う。

職場ではなかなか話せない個々の悩みなどを共有し、ちょっと団結した。ズルだけど、こういう安心感もまた仕事をよく回すと思う。同年代で談義をするのは楽しい。

 

お客様を迎えるために部屋の掃除をしているとき、どれだけ掃除をしてもどこかがうっすらと汚れているようで途方に暮れた。

いまの部屋に引っ越してきてようやく掃除の習慣がついたので、床や水回りなどの設備は清潔を保てていると思うが、かつての部屋でメチャクチャな生活をしていた名残で冷蔵庫の上とか電子レンジの中とかこたつの天板とかにシミがついてしまっていて、それらはいまさら磨いてもとれない。

自分のそのような存在であるな、と思っている。いつかの汚損を拭いきれずにいつまでもうっすら汚れている。

まだ使えるから使っているが、できることならば全て買い替えてしまいたい。

 

パーティーを解散した後にスマホを見ながらうどんを茹でていたら、以前お世話になった人が久しぶりにSNSに浮上しているのを見つけて、話しかけて別のSNSに誘ってもらって通話をした。

自分とは全く別の業種で働かれている氏のお話を伺うたびに、こことは別の世界の話を聞いているような気分になる。

東京はいまも高速回転している、と思った。街に行った時もそう思う。自分の周りでとにかくすごいスピードで情報が処理されていく。その中心になにがあるのか未だにわからない。地元に帰ってくると実感できなくなる、実態不明のスピード。

いまの自分の生活において身近だと感じていることの話をすると、新しいSNSにおけるそのトピックに関するコミュニティを紹介していただいた。そちらとこちらが地続きであることを立証されて認知がぐにゃりとゆがむ。

以前はこういう感覚のことをよく「ギャップ」と表現していた。いまは、特に何も思い浮かばない。この違和を捉えること自体にはあまり意味はないような気がしてきた。

みんな、なんらかの仕事をして過ごしていて、それにはなんらかの意味があるから仕事になってお金を貰えていて、そうやって生活を続けていて、それぞれに生きているからいい。

目的が一番大事だから、手段の比較にはあまり意味がないように思う。ねぼけすぎだろうか。

 

会話を終了してすぐ、近頃よく連絡をとりあっている友人がSNSの投稿を見て心配して連絡をくれた。

私は参っているらしい。いまが特別そう、という気はしないが、そうなんだろうか。

 

いろんな人と話をして、みんな優しかった。

ひとりになると寂しいので、左手を右手で握って眠る。

祈りのように見えるんじゃないか、と思ったが、強く握られたせいで左の指がひらいていて、まるでなんらかの意味を持たせた新興団体のアイコンのようだった。