終わった話

経過した事物

2021.02.06

午前10時に健康診断を予約しているので、昨夜から絶食して不健康に健康を保っている。

朝ごはんが食べられないとひどくつまらない。なにによって血糖値を上げるかの選択以外に朝の身体に喜びなんてない。

ぼんやりとした頭で病院へ行き、早く解放してくれと思いながら言われるがままに立ったり座ったり採取されたり測定されたりしているうちにお昼になった。

検査が終わったらぜったいに町中華を食べまくってやると思っていたのだが、いまだねぼけている胃にとってはちょっとハードな仕事かもしれない。

結局、スターバックスに行ってラテのグランデを頼み、ちびちび飲みながら山田航さんが編著された『桜前線開架宣言』を読み進めた。

真っピンクの装丁の中で数多の人の感情が詠まれまくっていて、あまりにも鮮烈な本。

寺山修司石川啄木の影響を受けて短歌を始めた、と紹介される人が数多く、親戚のおじさんの偉業をあらためて知らされたような気持ちになる。

隣の席に座っていた女の子二人組の片方がいま住んでいるのはどうやら私の故郷のあたりらしい。なにもない、を連呼する彼女の声はなぜだか嬉しそうだった。それでそのときにわかった。

いまだ。そうだ、田園に死のう。

 

スーパーできくらげと冷凍春巻きと鶏肩肉を買って帰り、台所の調味料棚の上にスマホを立てかけてAmazon Primeで『田園に死す』を視聴しながら、発泡酒を飲みながら、中華鍋で炒めて揚げて家中華を作った。

田園に死す』は恐れて構えていたほどの恐怖映像やおぞましい物語の類いではまったくなく、むしろ見ていてなんだか居心地がいい。

悪気のある人が出てこないのがいいのかもしれない。みんな、所業はどうあれ、いい人ばかりだ。田舎の悪は各々のひたむきさによってのみ発生する、ということかもしれない。

続けて、『書を捨てよ街へ出よう』を視聴する。冒頭のネイティブな津軽弁と突如響くギターの音色に三沢基地を連想した。なんて立派な郷土映画なのか。

自分もまた下北半島というまさかりで殺される人間の頭であるところの津軽半島の中心、その脳天のド真ん中で生まれたことをちょっと誇りに思った。

脂っぽいものを食べながらギトギトした映像をみていると、ときおり噎せる。そのたびに酒で流し込み、だんだんと深酒になった。

学生時代の友人と通話し、ぼろぼろと近頃の鬱憤を吐露した。あまりに気持ち良くて気持ち悪く、俺は最低だ、と思った。

 

文脈に全く関係ないが、寺山映画に出てくる人間の裸体はどこまでも標準的であるような気がする。その点においては誇張がなく、なんだか信用できる。

劇中の「おれはいつ女を抱けるの、」という叫びに、童貞ってちょっといいなとあこがれた。なれたらなってみたかった。

(手に入れ得)ないものへ憧憬はいつだって無責任だ。そこには敬意もなにもない。