終わった話

経過した事物

2021.02.05

日中ハイで、夜中はローだ。

職場では人の仕事まで手伝う快活っぷりで、家に帰ると自分の飯すらどう作ればよいのかわからない。

単純に疲労している。張り切って早出して雪かきをしたのと、帰宅時に路面凍結による渋滞に巻き込まれたのが効いたのかもしれない。こんな泥のような疲れは久しぶりだ。

時間はかかったが、風呂洗濯掃除自炊をひととおりやったのでえらかった。生活だって仕事と同じで手を動かせば終わるただそれだけのものだ。


昨晩、綺麗な絵を描く人から海と空の絵を送ってもらったのをスマホの待ち受け画面にしていて、今朝、雪かきを終えて事務所でスマホをひらいて網膜にその絵が映った瞬間に自分が朝の海の前に立っていて驚いた。

肉体が職場にいるのに、精神が朝の海にワープした。

移動してはじめて、なにもかもを振り切って訪れる朝の海にあこがれを持っていたことを思い出した。静かの海でコンクリート塀に座って鈍くゆれる波を見れば、ぜんぶわかったような気分になれることを知っている。

自分の意識が過去に未来に現在にちょこまか動きがちなことをやっと有用だと思えた。

こうやってどこにでもいけるなら、どこにもいられなくたっていいな。

いや、こういう自分の中のくだらない感傷を全部吹き飛ばすくらいに、ただひたすらに絵が綺麗だった、

記憶の中の海に連れて行かれた後はまたワープして、今度はまだ見たことのない地平線を見ていた。どんな光が映したのかわからない青が綺麗だ。この世のどこにもないようで、この世のどことも似ているような気もする。

精神を連れ戻してきてしばらく働いているうちに、これは有効期限のない片道切符をもらったようなものかもしれない、とも思った。

絵ってすごいな。言葉とちょっと似ている。


ここのところ毎晩、詩を読むことで胸の中の自分ではかけない部分を代わりにかきむしってもらっている。

昨晩は最果タヒさんの『死んでしまう系のぼくらに』を読んだ。

詩に対して、共感とか感想とかはあまり持たない。それはどこか音楽と似ていて、頭の中をがちゃがちゃいわせながらむりやり通っていくだけだから。

禍がはじまってすぐの頃に配信されたNUMBER GIRLYouTubeライブで終盤に唐突に森山未來さんが出てきて客席でめちゃくちゃに踊って去っていく場面があって、あの時は唖然としたのだけれども、いま思うとあの演出が伝えたかったことがそんな感じだったのかなと思う。

人間のそういう部分をどう扱えばいいものやら、いまだによくわかっていない。

何かを綺麗だと思うとき、たまらなく切迫するような気持ちになる。嬉しく寂しく焦る。そんなとき、ひとりで本棚の前に立つと安心する。

絵や音楽や人間と違って印刷された言葉は形を変えずに残り続けるので、私はそのところを信頼しているのかもしれない。

でも、万物が有機的に形を変えることの尊さとか美しさとかも、ちゃんと知っています。あまりに綺麗なので受け止めきれないだけ。いくじなしなので無機物とばかり親しくしてしまう。

波は有無をいわさず存在してくれるのでやさしい。

ずっと水面を見つめていられるようなときはきっと詩を読めるときで、その状態のことを真だと思うこともあれば偽だと思うこともある。