終わった話

経過した事物

2021.02.01

2時間眠れなかったので、2時間分ぼんやりしている。

普段通りにシャキッと朝の支度をするのは諦めて適当なおやつを朝ごはん代わりにして、お茶を飲みながらアルバムを1枚聞くつもりで合間にゆるゆると支度をする。

OGRE YOU ASSHOLEのライブアルバム『workshop 3(live)』を聴いた。出戸さん達はいつだって曖昧で不穏でゆらいでいてサイケでおどろおどろしている。『朝』という題の曲にすらさわやかさの欠片もなくて、逆に安心する。

そんな調子でも、家を出るころには意識にアクセルがかかりはじめていた。

月曜の朝って普段からこのくらいでいいのかもしれない。


なんていって、結局、仕事をするのに支障のない程度の意識レベルは保てていたが、目覚めはしないまま1日がすぎた。

ずっと眠い。エチゾラムを飲んだ時みたいに頭の中が静かだ。何も思いつかない。

つらい気分ではないけど、ぼんやりしている。話は聞ける。OK。文章は書けない。つらい。音楽は聴ける。やったね。

くるりの『nikki』を聴きながらインスタントラーメンを煮て食べていたら、まるで大学生の頃に戻ったかのように錯覚した。

その気分もすぐに霧散した。なんだったんだ。洗い物だけが残った。洗ったらなくなった。はじめから何もなかったかのようだ。


部屋の掃除は皿洗いと同じだということがわかった。

飯を食ったら皿を洗うのと同じで、存在したら掃除をする。

前の食事の思い出が残っている皿で飯を食うべきではないのと同じように、前に存在した思い出が残っている部屋には存在すべきではない。

次の食事を作るための準備として皿を洗い、次の存在を行うための準備として掃除をする。

片付けは綺麗な状態を保つために行うものではなく、また同じ行為をするための準備として行うものだということだ。

ずっと、掃除を行うべき頻度や程度について掴みきれずにいたが、やっと腑に落ちた。

またそこにいても不快ではないと思う程度に、そこに存在した度に掃除をすればいいのだとわかった。ごはんを食べる度にまたこの皿でごはんを食べても不快ではないと思う程度に皿を洗うように。


ねむさで頭がスパークしている。

こういう時の発想をその瞬間は天才的だと感じることが多いけれども、後から読み返すと何を言っているんだかわからないことが多い。あるいはきわめて凡庸であることも多い。

なんでもないようなことを取り沙汰してありがたがっているようなことはおめでたいことだ。

そんなことばかりしている。それは、なにもなかったということか?なにもしてこなかったということか?

 

ねむい。不具合だ。再起動したい。

今夜はエラーを起こさずに意識をシャットダウンできるといい。