終わった話

経過した事物

2021.01.08

午前3時過ぎまで眠れなかった。

7時半頃に目が覚めたが、内臓が起きない。

むりやり朝ごはんを食べ、ボーッとして、むりやり昼ごはんを食べて、お腹を下した。

昨晩、油断して缶チューハイを飲んだのがよくなかった。

とっくにわかっていることをやっていて愚かしい。身体のリズムに逆らってはいけない。


明日で地元を離れるので、本屋を巡って名残惜しさにケリをつけてきた。

大型書店で木下龍也さんの『天才による凡人のための短歌教室』を、まわりみち文庫で中島らもの読書エッセイと100円コーナーの古書を3冊購入。

敬称を略することが自然な作家とそうでない人作家がいて、この違いはなんだろう、と思う。

存命かそうでないか?顔を見たことがあるかそうでないか?その人と話ができそうかそうでないか?

作家名が固有名詞のようになっているとき、さん、をつけると奇妙に感じる。

たとえば、寺山修司のことを寺山修司さんと呼ぶ気にはあまりなれない。

 

まわりみち文庫の紙袋を持って近くの喫茶店に行ったところ、店内に同じ紙袋を持ったマダムがいて思わず話しかけた。

はからずともとても知的な方だった。

子曰く、国内の小説は小さくまとまっていてあまり好みではなく、イタリアやアメリカなどの小説に原著であたるのがお好きらしい。

私は語学に疎いので、そういうときは先に言葉を学んでから読むものですか、と質問すると、いやいや同時進行で読むのよ、とのことだった。

美しい言葉に触れていくうちに覚えるの、とお聞きし、それは、実務的なテキストで言葉にあたるよりも、なんとも喜ばしく楽しそうだ、と思った。

もっともお気に入りの作家はプルーストらしい。単純なおもしろさではなく、文学的おもしろさがあるとのこと。

話が盛り上がり、最終的には東欧のジプシーの音楽が面白い、という知見まで得ることができた。

こうして、二度と会えないかもしれない人と話しているときが、もっとも心が穏やかにはしゃいでいるかもしれない。


のんきに珈琲を飲んでいたら窓の外を正月が走り去って行った。

私もそろそろめでたい頭をおさめなくては。

f:id:mtdch:20210109070024j:image