終わった話

経過した事物

2021.01.04

暴力的な眠気。

食べている時間しか起きていられない。

月経に向けて身体がエネルギーを消費しているのかなと思う。

温存するか補給するかのどちらかをしなければ動かせない何かしらの機構が体内で作動しているんだろう。

一日中家にいて寝るか食べるかしかしてないって、正月か?いや正月か。

 

どうせ家にいるなら本を読みたいのだが、あまりに眠すぎて文章が理解できない。

昨日まで読めていた文章が煩雑で複雑に感じる。

仕事をはじめてすぐの頃、疲れている時には糸井重里さんの本を読みたくなり、もっと疲れている時には「ありのままのあなたで大丈夫(大意)」みたいな本を読みたくなってしまう悪癖があった。

いまになってみると、あの手の本に書かれていたのは文章ではなくてコピーの羅列だったんだな、と思う。

読者あるいは消費者になるべく考えさせないためにつくられた言葉。

文字を使っているというだけで同列に並べていたが、文芸や評論とは真逆の行為なのかも、とようやっと思い至った。

頭がうまく動かないとき、その状態の自分でも理解できるものを消費したくなるのは当然のことだと思う。

ここから政治(やそれを取り囲む態度)の話に繋げられそうだけど、いまそれをよく考えもせずに書くのは無責任だし、私は世にある様々な素敵なコピーライトのことが好きなんだけど、ちょっと怖さを含むよねって思ったっていう話。


そういう理屈で、本が読めないときでもTwitterでバズっているくらいの文章なら理解できるので、ひたすらスマホをいじってしまう。

次第に目も疲れてしまい、どうしようもないので屋根雪が滑り落ちた後の屋根に再び雪が降り積もるのを見つめていた。

思っていたよりも早い速度で青色だった屋根が真白く染まっていく。

小学生の頃、雪が積もる瞬間を目撃したくて、初雪の日は授業中もずっと窓の外を見ていたのを思い出した。

忍耐強さに欠ける私がその瞬間を捉らえられることはもちろんなかったが、次第にその瞬間について想像するだけで満足するようになっていった。

地面に雪の結晶が触れ、地熱によって溶ける。触れて、溶ける。幾度目かの結晶が地面に触れた時、だんだん冷やされて零度以下になったその地面の上で、ほんの僅かな設置面で、結晶が、立つ。その時の角度とか、形とか、二つ目に降りてくる結晶との接地面とか、すこし目線を引いた時に周りに生えている苔とか、砂利の様子とか。

そうやってどうでもいいようなことに想いを馳せる遊びをすることで、いろいろな大切なことについて諦めをつけることができるようになってきたような気がする。

あの頃、どんな鳥も想像力より高く飛べはしない、という地元の先達の言葉に大いに勇気づけられていた。

 

久しぶりに寺山修司御大先生の御著を読み、内容のひどさとその完成度に笑ってしまった。

これぞ我が故郷の民度とそれに伴う文学なんだよな。

寺山しかり太宰しかり、地元にいた頃はこういった文学しか読んだことがなくて、文学とはこういったものだとばかり思い込んでいた。

あてられてエログロナンセンスばかり漁っていて、馬鹿だったなと思う。あるいは原宿系とか、ちょうどそういう時代だったのかもしれない。

年末年始用に買った『プルーストを読む生活』にそういった「ブンガク」を忌避するたとえとして、「国境の長いトンネルを抜けながら指のにおいを嗅いだり」「やれやれ、とパスタを茹でながら射精したり」とあり、これも読んでいて笑ってしまった。

どっちもおもしろいんだけど、そうじゃないものもある、と知れたのはかなりよかった。

それしか知らなかった頃は、読むことは少なからず自分を削ることでもあったが、いまはあまり無理をせずに読むことができている。

 

文章について書く文章は長くなるのか?

冗長になってしまった。ここでおしまい。

 

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