終わった話

経過した事物

2020.12.24

どんどん寝るのが遅く、起きるのが早くなっている。

それだからといってハツラツと活動しているわけでもなく、9時から15時あたりまでずっと眠い。

もっと寝たい。また眠れなくなりつつある。


職場で一日中、ぼーっとするのにまかせて低めのテーブルでチマチマした作業をしていたせいか、キツめの肩凝りになった。

家に帰って湯船に浸かっていると、先日悩みを聞かせてくれた友人からSOSがあり、びしゃびしゃの心身を乾かして自宅に急行する。

身も心も布団に沈み込んでいる友人の横でみかんを食べて、ノンアルコールビールを飲みながら話を聞いた。

うめきながら時折、こんな事は受け止めきれない、と漏らす友人の姿に、数ヶ月前の自分が重なった。

思考がループして、感情が溢れて、止めようとしても止まらなくて、脳にこんな負荷がかかってよいものかよ、と思うほどの苦痛。

それこそ、出来事を受け止めるための身体の反応だとは思うが、渦中にいるときは苦しくて仕方がなかった。


生きていると時折、物語的なことが起こる。

でも、降って湧いたその物語の続きを紡ごうと思って、魂まで投げ打ってはいけない。

その途端に人生は我々の手を離れてしまうから。

物語をつくりあげるのは、確率で、タイミングで、ある種の故意で、偶然だ。

我々の意識はそこに絶対に介入することができない。

物語は紡ぐものではなく、紡がれているものだ。出演するものではなく、眺めているべきものだ。

勘違いして自ら役割を演じにいってはいけない。書き割りに沿って生きていてはいけない。

なぜなら物語は人生よりもよっぽどはやく幕を下ろす。

 

物語なんかよりむしろ、支離滅裂で破綻しているカオスな軌跡にこそ、美しさがあると思う。

思い込んでいる。そうであってくれ頼むから。