終わった話

経過した事物

2020.12.12

日本酒を(用法容量を守った程度に)よく飲んだ日の翌朝は、心地よいだるさがある。

昼過ぎには治ることがわかっている、治りかけの風邪のような。

存分にかまけて、だらだら過ごす。本を読むのはだるいので音楽を聴いたり映像を見たりする。

以前から気になっていた『カルテット』をAmazon primeでイッキに見た。

のだめカンタービレクラシック音楽に感銘を受けた後なのもあいまって、弦の音が自分にすごくよく響く。

エンディングの映像と椎名林檎さんの重厚さにこわさを感じて敬遠してしまっていたが、登場人物は思っていたよりもみんな優しく、温かく、安心して見ることができた。

コミカルだし、みんな見目麗しいし、これは確かに素敵なドラマだ。

 

今週末のノルマにしていたタイヤ交換も映画も、明日の予定になった。

それならいっそ、ずっと酔っぱらっていたくて、昨日も行った地元の酒屋でウイスキーを買った。

連日訪れるのが恥ずかしく、顔を伏せてそそくさと買い物をしてしまう。

一度訪れて多少話し込んだ店でも、自分の顔など記憶にとどまらないだろうと思って、あたかも他人のような素振りをしてしまうことがあり、これはこれですごく変に映るだろうな、と思う。

以前、そういうときは自分から挨拶すればいいじゃん、なんでしないのか、と人から注意されたことを思い出した。

いい加減こういうことはもうやめにしよう、と自分を恥ずかしく思った。

 

洋酒に合うものを食べたくて、スーパーでパンを買い、いつもの味噌汁ではなく野菜のトマト煮込みをつくった。

そこに本質はないが、たまには小洒落た雰囲気を気取るとたのしい。

ビールを一口飲んだ瞬間、その5秒間だけ、ああやっと自由になれた、と思った。

どうせ最後には肉体と意識しか残らないなら、ずっとこうやって曖昧に生きていたい。

誰とも深く関係せず、自分ではなく社会が生んだものを消費して、時間をやり過ごしていく。

そうしていれば、傷つくことも傷つけられることもなく、段々といまあるものを失っていき、肉体が老いていくだけだ。

そんなこといって、私はいま、その未来を受け入れる覚悟も、かといって人と向き合う覚悟もない、ただの腑抜けだ。

そう思ったとたんに、酔いは覚めて、もうウイスキーは開ける気にもならない。

 

こうやって日記なんか書いて、生活や情緒を物語みたいに小綺麗にまとめて、目を逸らして、めちゃくちゃダサいなと思う。

そんなことより、向き合ってもがいている様の方がずっと美しいと思う。

かつてはもっと、ダサいことが許せなくて、ちゃんと向き合っていたくて、でもそれはとても苦しくて、だんだん死にたくなっていって、死ぬよりはマシだと思って目を逸らすことにした。

もっとあかるいところにいこうと思って、あかるいところに行けるその日まで生きるために、いまを誤魔化しながら時間をやり過ごすために、日記を書こうと思った。

あのとき終わらせてしまわなかったのは正解だと思っているけれども、あかるいところっていったいどこなのか、これから何を目指せばいいのか、迷ったまま時が過ぎていっている。

 

とにかく、安心して生きたいと思うあまり、好きな人に好きだと伝える勇気すらない腑抜けになってしまった。

誰にも彼にも私にも何もしてあげられないのならば、私のこの意識に何の意味があるだろう。

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