終わった話

経過した事物

2020.12.08

ここ数日、寒さと常時換気の影響で職場で凍えている。

朝に家を出てしばらくはつめたさに耐えられるのだが、やがて昼過ぎには身体が冷え切って、頭がボーッとしてしまう。

退勤時にはすっかり疲れきって、ダルい身体を引きずって家に帰り、そのまま床にパタリとなってしまう。

生活に支障をきたしており、厳しい。

 

床にて、のだめカンタービレのアニメを3シーズン全て見終わった。

とてもよいアニメだった。

自分の人生や他人の人生を重ねて想いを馳せて、絶望したり歓喜したりしながらの鑑賞だった。

 

終盤、のだめがライバルの演奏を聴いて失意に沈む中、恩師の誘いを受けてステージに上がって彼女にしかできない演奏をした場面で、あ、人生なんだ、と思った。

 

小学校の頃から中学受験の直前まで、母の勧めでピアノ教室に通わされていた。

通わされていた、という自認の通り、わたしは勿体ないことに8年あってもピアノを弾くことが好きになれなくて、そんな自分のことも好きになれなかった。

楽譜に書いてあることを完璧に再現する、というクラシックのそもそもの考え方に納得できず、ジャズピアノのレッスンや上の階で行われていたドラムのレッスンに憧れていた。

練習して到達する場所がみんな同じであることに違和感を持っていた。

 

たぶん、真面目にやっている人ほど、そうは思っていなかったのだろうと思う。

同じ楽器を使っても、人によって出る音や出す音が違う。

自分の限界や他人の限界にこの手で触れられる場所に到達することが、目指すべきゴールだったのかもしれないと、いまになって思う。

 

作中でも言及されていたが、練習をするとき私たちは孤独で、さみしさを味わう。

それは、自分の中にある感情や感性を人に伝えられる形にするために、自分自身にひたすら向き合う必要があるからじゃないかと思った。

人生を通した他者への表現の過程にいる私たちがさみしいのは必然で、決して無駄なことでも愚かなことでもない。

 

みんなそれぞれに孤独だから、それぞれの孤独を伝え合うことに大きな意味がある。

のだめの音楽が沢山の人に伝わった場面でそう思って、打ちのめされた。

 

晩ごはんはへたくそなハンバーグを作って食べた。

煮込みハンバーグは母の作るごはんの中でいちばん好きで、一人暮らしをはじめていちばん初めに作ったメニューだ。

にもかかわらず、未だにあまりうまく作れない。

きっと、母の味を再現しようとしているからだと思う。

母の影を追うのではなく、自分なりにおいしいハンバーグをつくれるようになりたい。

へこたれずに、へたくそなハンバーグを食べ続けてがんばろう、と思った。

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