終わった話

経過した事物

2020.11.28

午前、インターネットで知り合った人と待ち合わせて、はじめてビデオ通話をした。

SNSで知り合った人とSNSの外でコミュニケーションすること自体がはじめてのことで、しばらく存在感があるようなないような曖昧な心地でやりとりしていたが、顔を合わせられてようやく存在が腑に落ちた。

やはり顔をみると明確に、人だ、という実感が湧くなと思う。

通信のラグがあって、こちらが笑った数秒後に画面の相手が笑うのをかわいく思った。

音楽や映画や制作の話をした。新しく趣味の似ている友だちができてうれしい。

 
電話をしながら爪を何度も塗り直していたからか、溶剤のにおいが鼻について頭がふわふわする。

出掛けた先でコンビニのカフェラテを飲んでいくらか脳をはっきりさせる。

職場のある先輩の手が仕事のせいで赤くなっていたのが気がかりだったのを思い出し、ドラッグストアでハンドクリームを買った。

百貨店など到底無いこの町で、当初は商店街の雑貨屋で目ぼしいものを見繕うかと考えていたが、かえって気軽なものの方が気兼ねなくてよいだろうと思い直し、トイレットペーパーなどを買うついでに手頃なものを選んだ。

先日、Twitterで、「引っ越しの手土産はとらやではなくヨックモックくらいが"感じのいい"さじ加減だ」という呟きを見て、ハッとした。

 
伊皿子りり子(編集者・タナカリエ) on Twitter: "引っ越しに伴うお隣さんへの挨拶について、「とらやではなくヨックモックくらいにしときや。それが『感じええ人が越して来はった』と思われるさじ加減や」という教訓を得ました。完全にとらや一択やったわ。"

 
だれかになにかをしたい、と思うとき、それについてすごくエネルギーを費やしてしまうことがある。

"とらや" でなくてもいい(むしろそうでないほうがいい場合もある)、という見方はきっと互いにとって都合がいいな、というように受け止めた。

人付き合いはたのしく、むずかしく、やめられない。


夜、キムチ鍋をつくって食べる。

自分で作ったにもかかわらず、思ったよりもおいしくて感動してしまった。

私の考えでは家庭料理は基本的に食材の時点で味が決まっていて、調理する人は納得のいく程度に火を入れたり塩(気)をしたりするだけなんだけど、その納得感が重要なのかもしれないと思う。

納得がいく塩加減をしたから、納得のいく味になったのだ、と納得する。

なにを納得とするかは人によって違っていて、それが味の違いを生む。

このあいだ、友人とキッチンでビデオ通話をしながら互いにつくって食べたとき、同じメニューを作っていても作業のリズムや調味の塩梅が大きく異なることに気づいて驚いた。

違うから、人のごはんを食べたくなるんだな、とも思った。

自分にはない見方や味覚を得ることはこの上なく刺激的だ。

自分の味が大好きになればなるほど、他の人の味も楽しめるようになる気がする。

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