終わった話

経過した事物

2020.06.07

公務員試験の過去問を解くために図書館に行った。

 

昨今の図書館は感染症対策のための緊張感に満ちている。

マスクの着用が半ば義務付けられ、机あたりの椅子の数は減らされて広々としている。

人が飛沫の拡散を抑えて一定間隔に並ぶ様はまるで試験室のようで、ちょうどよい予行練習になった。

 

お昼時、腹は空けども金はなく、近くの産直で近くの誰かが作ったカツ丼を230円で購入して食べた。

近くの人同士で価値を交換し合うのは合理的で、その仲介のコストが小さければ循環の規模も小さいけどその分のやりやすさがあって、なによりそういう形は私のような者にとってはありがたいよなぁ、などと金のないことへの言い訳をくどくど考えながら感慨深く激安カツ丼をいただいていたが、ふっくらとした卵とじの中にはしっかりと殻が混入しており、奥歯のじゃりつきが増すごとに感慨深さは消失し、社会の格差への怨恨が増した。

辺見庸の『もの食う人々』という本で読んだ、バングラデシュには「残飯市場」があり、富裕層の結婚式等の残り物が鮮度別(当日の残飯と昨日や一昨日の残飯で市場価値が異なる)に流通して貧困層の主な食料になっている、という話を思い出した。

ホモ・エコノミクスは本当に残酷で、我々は自らが決定した価値に服従する謎の入れ子構造の中で暮らしている。

また、大学で研究室に所属していた頃、いつものごとく沈黙するゼミにおいてつなぎにでもなればとその話をしたところ、よく知っているねと思いがけず教授に評価され、エアコンの音がいやに響く涼しい部屋でへへへと愛想笑っていた自分や、その周りで沈黙し続けていた空気のことも思い出した。

 

フェイク野郎になりたくなくて、現場に出たり散歩をしたり本を読んだり文章を書いたりしている。

わかっていないことをわかったふりして見過ごすことは恥ずべきことだと思う。

ひどいことがきちんとひどいと認められ、個々の存在があたりまえに尊重される世の中になって欲しい。

そうした理想と自分の態度のギャップに耐えられなくなって職場も離れてしまった。

次に向かう場所でしっかりそれに向き合えるのかはわからない。

 

図書館へ戻り、ティーンズコーナーにあった池上彰の『政治と経済のしくみがわかるおとな辞典』を読んだ。

過去問を解いて、社会科学と時事をもう少し詰めたいなという所感があった。

自分は社会のお勉強をもう一度しなおすためにいまここにあるんだなと思った。

 

夕方、しっかり腹を下しながらこの日記を書いている。

ずっとモラトリアムをやっている。