終わった話

経過した事物

連なる生活

平日。ウィークデー。連なる生活。

出勤してからはお客様のため品質向上に勤め、退勤してからは自分のために栄養状態と衛生状態の向上に努めた。

 

帰ってから30分で作るごはんを毎日食べていたら、帰ってから30分でごはんをつくること自体を愛せるようになってきてよい傾向だなと思う。

近ごろは、仕事をしている時間以外になにをしたらいいかわからない、ということを毎日至極真面目に考えていたのだが、なんのことはなく自分の健康で文化的な最低限度の生活を守るための活動をすればいいのだな、と思い至った。

具体的には30分でごはんをつくったり1時間で洗面台を死ぬほど磨いたり時間を忘れるほど月の予算について考えたりする。

 

家元を離れてからもう5年も経つというのに自立した生活(常に片付いた部屋・常にバランスの取れた食事・常に不安のない財政状況)に程遠い日々を送る自分のことを心底情けなく思っていて、この状況から今すぐにでも脱却したいという気持ちが募るあまりに「掃除 やり方」で検索しては際限なくインターネットを漂うほこりのような生活を送っていた。

なんのことはなく、気になったことをひとつずつやればいいのだ。

料理をしたらシンクの水垢が気になったし、洗面台を磨いたら洗濯パンの汚れが気になった。無計画に散漫にそれらを実行していけばそのうちいつのまにかそれなりの快適な空間が出来上がっている、というのが世の主婦様方がなされている家事の仕組みなのかもしれない。

体系的な実行は到達の近道かもしれないけれども、到達するために必ずしも体系的である必要はない。

別段に記憶する必要も記録する必要もない。

意識の分散は愚かで悪と思っていたけれども、分散する意識こそが人生であり生命かもしれないとまで思う。そうかもしれない。

 

今年の終わりには四半世紀生きてしまったことになるのに、この段階でこんなことを言っていていいのかという気持ちもある。

でも、こんなことを昨日考えついていた世界線の自分には敵わないけれども、こんなことを明日考えついたかもしれなかった世界線の自分には勝ることができるような気がする。

今日もシャワーを浴びて寝る。明日も起きて仕事に行く。