終わった話

経過した事物

2022.01.24

深夜になっても眠れなくて、目を瞑ってひたすら音楽を聴いていた。

瞑っているはずなのにちかちかする視界の中で、seihoさんが睡眠のためにつくったアルバム『DESTINATION』の『INTRODUCE』の「毎晩、眠りにつくたび、私は死にます」「そして翌朝目を覚ます時、私は生まれ変わる」という二節を聞いて、たしかに、と思った。

眠ることとは生きたまま死ぬことで、それならば私はいま、はやく死んでまた生きたい。

そうやって眠りについたことを職場で昼休みに思い出し、夜になったらまた死ねる、と考えていることに気付いて、この思考はいかがなものだろう、とハッとした。

 

給湯室で先輩と出くわし、職場がシリアスな状況になっているという認識を共有して、すこし気が楽になった。おかしくなっているのは私だけではなかった。

調子を崩している人たちが何人かいることが心配ですと話をしたら、お手伝いできることをなるべく手伝うことしかできないね、と言われて、そこでやっと、職場の人を抱きしめることはできないんだと気が付いた。

人と人の付き合い方にはいろいろあって、職務で付き合う人には職務上の行為でしか接することができないのだった。

家族や友達のような親しい関係性の人に対して行うようなケアを誰にもできるというわけではないし、むしろそうする必要はない、ということがわかった。不特定の人へのケアについては、それ自体を職務とする人がいる。

私は、人としての部分で、同じ空間にいる人同士はケアし合うべきだと考えていたのだけれども、我々はそううまくいくようにはできていないらしい。

こんなに長い間生きてきているのに、ちっともうまく生きられるようにならないんだな、と思った。

 

夜、昨夜つくっておいた鍋を温めて食べた。

よく澄んだ鍋は湯船によく似ている。

みんなにそれぞれにとってのあたたかい場所があるといいなと思う。