終わった話

経過した事物

2021.01.24

朝ごはんに昨晩焼いたケーキを食べた。

生地をしっかり焼き切れたので油が馴染んでしっとりしていて、りんごのやわらかさがよく出ていて美味しい。

夜が明けて朝になるとき、きっと何かが変化しているんだろうという気分になる。状況なり、状態なり、関係性なり。

絶対に不変なのは我々の肉体と意識のみだ。今朝も生まれてから昨日までの意識を引き継いで起床する。

子どものころ、自分の両親は本当の両親じゃなくて宇宙人なんじゃないか、というよくある疑問と並行して、寝て起きた私の意識は本当に寝る前の意識と同じなのだろうか、宇宙人にすり替えられてやしないだろうか、ということをよく考えていた。

残念ながら同じです。脳の不具合で似たようなことが起こることはあるかもしれないけど、謎の宇宙人とやらはとくに来てないよ。

 

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昼過ぎ、晴れてきたので久しぶりに笛を持って出掛けた。

学生時代にアイルランド民族音楽を演奏するサークルに所属していたので、ティンホイッスルというリコーダーのような簡易な縦笛をすこしだけ吹くことができる。

以前書いていた日記を遡ってみると、熱心に練習していたのはおよそ4年前のことらしい。日記を読む限り、当時は夜半に公園や川辺などの野外で笛を吹き鳴らすことにやけに執着していたようだった。滾っていたのかな。セッションやライブの機会があったから、素直に張り切れたのかもしれない。

アイリッシュ音楽はパブや台所で演奏されてきたという成り立ちに基づく自由な雰囲気がある反面、演奏法においては伝統の踏襲を重んじるところがあり、当時の私は演奏に取り組んでいく中でその両方の折り合いをつけることがむずかしくなっていった。そのスタンスの取り方が人間関係にまで影響し出した(と感じた)時に、とりわけむずかしくなった。

サークルを離れた後もひとりで吹いていたが、いつの間にか吹かなくなってしまった。正解の存在自体を認識しながらもその形を全く掴めないでいることが不安だった。いま思えば、それすら程のいい言い訳だったのかもしれない。

今住んでいる町には山と一体化した公園があり、見晴らしのいい展望台のような場所にベンチがある。そこに座ってしばらく吹いた。

久しぶりに吹いた笛からはへろへろの音しかでなくて、辟易してしまった。気持ちいい音も何もあったものではない。笛から音を出すので精一杯だ。

でも、町に吹き下ろす気持ちで笛を吹くのはなんだか小気味よかった。

 

満足するまで笛を吹いた後、肺ごなしに散歩をした。

商店街のとある一角には空爆後のように鳩のフンが散乱している。

別の通りにある餅屋のショーケースには桜餅が並び始めていた。

春なんだろうか。そろそろ梅が咲くんだろうか。


馴染みの喫茶店でウインナーコーヒーを飲んだ。

スナックを改装したのであろうカウンターではママと常連さんが時勢の世間話をしていた。禍以後、1年中どこに行っても同じ話がされている。気温と光と植物と人間以外の動物だけが変化しているような気がする。

黒くてふかふかのソファーに居座って、吉田篤弘さんのエッセイ『木挽町月光夜咄』を読んだ。とんでもなくおもしろい。私は『それからはスープのことばかり考えて暮らした』を読んで以来、吉田さんのことを凡な天才だと思っていたのだけれども、エッセイに綴られていた思考の網は思っていたよりも俗的で、しかしその手繰り方がおもしろかった。

坂口恭平さんしかり、群ようこさんしかり、つらつら書く人の文章はやはりおもしろいなと思う。読んでいて自然な気持ちになる。あるいは自然に読めるようにつらつら書いているのか。

過不足なく書く、というのは難しい。未熟者はおおむね過だ。つらつらかつ過不足ない、という文章に出会った時、うつくしすぎて悶絶してしまう。小声でひぇ〜とか言いながら読み進める。傍のウィンナーコーヒーが文章に負けないくらいうつくしい美味しさで心強い。


ほどよく疲れていい塩梅に1日を締めくくれた気分になっていたが、寝入りばなに友人から着信があって脳みそがひっくり返った。

人間、22時くらいがいちばん脆弱なんじゃないか?2時にする判断よりも22時にする判断の方が愚かしいことが多いような気がする。だから、22時になる前には眠っていた方がいい。注:これは詭弁です。

心臓をギュッと掴んでいたら眠れた。