終わった話

経過した事物

2021.01.17

非常にソワソワしている。背中も凝っている。

カラオケ屋の個室で脱力するまで喚いてみようと思って車に乗り込んだが、駐車場でふと思い立ち、先に初詣に行くことにした。

隣町に立派な庭園を携えた大きなお寺があり、そこに植えられているとある御神木のことを勝手にとても親しく思っている。

口実もあるし、会いに行こうと思った。

きっと気持ちを落ち着かせてくれるだろう。


庭園の中央には大きな池がある。

水が好きだ。不変で、流動していて、示唆的で、包括的で、それでいて清いから。

お寺にたゆたう大きな水の有り様が私ごときの頭の中のうねりを圧倒してくれることを期待していたのだが、池はすっかり凍ってしまい、薄い雪に覆われていた。

一瞬思考が停止したが、かえって、その有り様に納得する。

そうだいまはたしかに静止の季節なんだった。

無理に動こうとするのは無茶な行いだ。

 

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本堂から庭園の池に向かう道の手前にその木はある。

その木は円柱のように整った立派で太い幹を持ち、直上に向かって真っ直ぐ立っている。

木肌に触れると樹木とは思えないくらいになめらかくて、私はいつも人肌と同じあたたかさすら錯覚する。

人目をはばかりつつもしばらく触らせてもらい、気が済んだら裏手に回って根本の洞に小銭を入れて帰る。

洞の中にはいつも何枚かの小銭があり、ここをよすがにしている人が他にも幾人もいることがわかる。

いつからここにいるの、ずっとこんなことをしているの、頭の中でそんなことを問いかけてしまう。

きっと平安時代の人たちも、その後の時代の人たちも、めいめいにこの池のほとりのどれかの木によりすがっていたんじゃないだろうか。

そうでなければ、こんなに人間の肌に吸い付くような木肌にはならないだろう。

木は変化するがその時間軸は私たちを圧倒している。そのことをとても信頼している。

 

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お寺に参ってもまだ頭がぐちゃぐちゃしたままだったので、カラオケに行って小一時間喚き、昼過ぎに家に帰ってお好み焼きを焼いて食べた。

食べていたら友人から連絡があり、ついでに頭の中のぐちゃぐちゃを吐き出させてもらう。

それを受けた子曰く、そういうことはもっと人に話してもいいんじゃないの、とのこと。

たしかに。自分で自分に問うていても堂々巡りするだけだ。螺旋を辿りたいなら、坊主とでも問答した方がいい。

 

夕方、穏やかな映画を見て頭の中がようやく静かになった。

その隙をみて親しい人に連絡して話を聞いてもらい、ひどく安心してようやく力が抜けた。

脱力、もはや解脱、という気分。

もしかしたら、また人を信頼しようと思えるかもしれない、とすら予感した。

曖昧で、不安定で、理解不能で、清くもない存在を。

その曖昧さを、不安定さを、理解不能さを、清くなさを、好きになることを恐れなくても大丈夫になるかもしれない、と思った。

そう錯覚させるくらいに、あたたかかった。