終わった話

経過した事物

季節の変わり目の目

 

夏の終わりと共に無職を終え、労働市場に復帰を果たした。

 

 

季節の変わり目に揉まれつつも、久しぶりのフルタイムの労働生活に体を慣らしている。

 

 

無職期間に一番幸せだったことは、毎食自分で作った自分のためのご飯を食べられることだった。

今は仕事が終わった後にイチからごはんを作るのがしんどいので、週末に野菜をまとめ買いして煮物や漬物やちょっとした副菜を作り置いておき、その日の気分に合わせて主菜(肉や魚)を作ったり買ってきたりしてやりくりしている。

以前は土井善晴先生の『一汁一菜の提案』を盲信してよく味噌汁を作っていたが、副菜で一食分の野菜量に満足してしまうのであまり作らなくなった。

作り置きの副菜が冷えた野菜なのに対して味噌汁は温かい野菜なので、味噌汁の方が健康的な野菜の摂取の方法のような気もしている。

まあ、食べないよりはいいと思う。野菜を食べると胃と気持ちが落ち着く。

 

近頃の私の情緒は以前と比べて格段に安定するようになったと思う。

あれだけ憎んだ雇用労働はなんだかんだ大枠の仕組みは人類に最適化されているようで、決められた日数決められた場所に行くことで決められた額の価値を得ることができる、と決められていることには大いに安心感がある。(不安のほとんどは先行きの不透明さからくるものだから。)

また、その場で起きることについて自分なりに考えたり、自分なりのベストを尽くそうと働きかけてみることは、なんだか自分が時間を無為にしていないような気持ちにさせてくれる。

ただ、そういった思考は「これは茶番」という前提に立った上で行うものなので、あまり誠実でも真実でもないような気がしてしまう。

自分の人生を進めていくためには、亡くなった祖父のこととか、逝く人の意識とか、家族の関係性とか、生きている人にできることとか、そういったことに目を向ける必要があるような気がする。

頭の中のそういったことを考える部分に意識を集中させると、何か意義のあることを考えている気分にはなるのだけれども、相対的に体はベッドに沈み込んでいく。

感傷的が悲観的に変わっていき、泣いたり喚いたりする羽目になることを知っている。

日々の仕事で得る細々としたストレスは、そういう仰々しいストレスを慰めるためのものだと知っている。

ただ、季節の変わり目とかにふと、自分はなにをしているんだろう、と冷めた気持ちになってしまったりすることがある。

わざわざ日記を書くのは決まってそういう時だったりする。