終わった話

経過した事物

2020.07.15

求職活動の関係で、しばらく実家にお世話になっている。

毎日みんなでテレビを前に食卓を囲んでいるのだけれども、そこで繰り広げられる「本日の我が家のお茶の間ワイドショー」がこの上なくつらい。

ニュースで流れる話に誰かが自分の意見を呈し、同意を求める。

そこで繰り広げられる議論は昨今ほぼすべてのSNSのコメント欄で繰り広げられているような水掛け論でまったくもって目新しい意見ではなく、その上そのニュアンスはたいてい差別的あるいは前時代的だ。

わざわざ発話する意味があるのか?と思うし、あまりに差別的な内容については肉親であれども怒りがわいてくる。

こういうお茶の間の集合体が世論であり現代社会で、そりゃ選挙はそういう結果になりますわなと思うと本当につらくなってくる。

 

まぁ、みんな議論ではなくコミュニケーションをやっているだけだし、そんなに考える必要はないんだと思う。

それに、人が意見を持つのもそれを表明するのも自由な行為だと思うから、制限する理由はない。

テレビに向かって冷笑する人間を冷笑する人間って二重にダサい気もする。

マイノリティに興味を持つのも、何かの逆張りの潮流に乗ってるだけで、行為としてはお茶の間ワイドショーコメンテーターとあまり変わりはないのでは、という気もしてしまう。

 

しかし、こんなクソみたいな茶番にずっと乗っているのはくそつまらなすぎる。

怒りを飲み込まず、お茶の間朝まで生バトルをやればいいんだろうか。

国とか自治体とか職場とか友達とか家族の中において、我々にはもっと議論が必要だと思うんだけど、いざ家族とそれをすることを考えると全然やる気にならないし、気が滅入ってくる。

感情を切り離して議論をするには互いにかなり注意深く会話を重ねることが必要だと思うんだけれども、家族全員にそれをできるとは思えないし、なおかつ家族のことを大切に思っているから関係を崩したくない。

お茶の間朝まで生バトルはちょっとつらいなと思う。

 

地元に最近オープンした、ホテル業界で働いていた方が脱サラ(https://hirosaki.keizai.biz/headline/1517/)(すごい言葉だな)して開業された本屋に行った。

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弘前はメチャ文化シティなのに受け継がれてきたものが近年の過疎とか財政難とかで朽ちていってしまって残念だな、と思っていたのだけれども、それは思い違いだったようで、弘前れんが倉庫美術館といい、まわりみち文庫といい、文化都市弘前の再興なのか?という沸々加減でたまらない。

駅前の複合施設にも資本~、という感じのカフェと本屋のテナントが入っていて、もしかしたらこの街ではまだ若い人が増えているのだろうか?わからない。

 

ベルリンに住んで人々の生活について漫画を描かれている香山哲さんという人が『くそつまらない未来を変えられるかもしれない投資の話』の挿絵を描いていて、そのタイトルの元ネタが『クソみたいな世界を生き抜くためのパンク的読書』とのことをSNSで知り、先述の本屋で2冊がはす向かいに陳列されていて、ありがたいな~、という気持ちになり、購入した。

音楽としてのパンクは全然聞いてこなかったし、いまもそれがどんな音を指すのかよくわかっていないんだけれども、2冊であらわされていたパンク的な価値観についてはうんうんと頷くところが多く、いっていることがよくわかった。

まだ全然自分の言葉で説明できないけれども、社会に対する不適合感を持ったうえで社会とどう関わっていくか、という考え方はすごく参考になるし希望に思える。

"Do it Yourself"と"Anyone can do it"の精神も、すごくワクワクするし、やさしい考え方だなと思った。

 

怒りながら食卓を離れ、自室で本を読んだ。

思えば実家で生活していた頃は、幾度となくこういう夜を過ごしていた。

怒りで寝られなかった中高生の頃の自分を思い出し、懐かしく思った。

諦めきらずに成人して、社会人になって、自由にお金を使って自由に生活できるようになれてよかった。

また職を得て、よいと思うものにお金を使って、よく考えて、自分の考えを表明して生きていきたい。

 

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