終わった話

経過した事物

おのれ己

5月ですね。

皆さまいかがお過ごしでしょうか。時候の流行り病に侵されてはいませんか?

こちらはやる気はそこそこあるのですが、右足の人差し指から薬指にかけての感覚がなく、首と肩と腰が凝り、めまいがして耳鳴りがして動悸がして息が切れて、頭が痛くておまけにお尻も痛いです。

病名がいくらでもつけられるようでつけられない、西洋医学にはあんまり救ってもらえない慢性緒症状。

今日、EMIさんの『僕が僕であるためのパラダイムシフト』というコミックエッセイ風の物語を読んで、このいつからでいつまでなのかわからない長らくの不調は、私が私のことを無視し続けていることが原因なのではないかと思い至りました。

この本は鬱病を患った主人公が自分の鬱と向き合いやがて解放に向かうまでのプロセスが語られた物語で、トラウマ、マインドフルネス、アドラー心理学NLP、カウンセリング等について触れられています。(かなり読者に誠実ないい本だと思うので、もし自分の気持ちについて悩んでいる方がいたらすこし目を通してみてもいいかもしれません)

作中の一節によると鬱は何かを訴えるためにそこに居り、その内面の訴えにひたすら耳を傾けることが必要だ、とのことでした。

 

 

本当は私だって学級委員長をやりたくないし、業績を上げるために身を捧げたくないし、手足でリズムをとりながら歩きたいし、道端でいちいち立ち止まりたいし地面や手すりの感触を触って確かめたいし咲いたばかりの花びらに口を付けたい。

変な人だと思われるから、周りの人を不安にさせるから、と思って一般的な立ち振る舞いを研究し続けてきましたが、そろそろ自分が妙ちきりんであることについて諦めようかと思います。

 

おのれ己、これまで私をいじめやがって。

お前の制止を振り切っていきたい世界にいきたいです。