終わった話

経過した事物

たましいの容れ物

存在についての自分なりの解釈の話をします。

気に食わない人がいたらすみません。あなたの話はしていないので安心してください。

 

先日、数年前に書いた自分の文章を久しぶりに読み返して、今の自分との考え方の違いに驚きました。

大事なものとかがすっかり変わってしまっている。

たとえば、過去の私は「人間の使えるレンズで一番解像度が高いのは目だから写真は撮らない」と言っていたのですが、いまの私は「人間の使える記憶媒体の中で一番正確性に欠けるのは脳だ」と思っているので、バシャバシャ写真をとります。…いや、これは別の話かもしれない。たとえを間違えた。

ともかく、こんな私ですが同窓会などで旧友と会うと、きまって「変わらないね」と言われるのです。

これは、私たちがお互いの内面の変化について、思っているよりもだいぶ鈍感ということなのでは?と思います。

 

私を認識している私が一人であるのに対し、私を観測する他者は無数にいます。

多数決なら、1:♾(正確には70億)で私の負け。

わたくしという現象は無数の他者による無数の解釈の平均値にしかなり得ない。

私一人では私を規定できないし、あなた一人では私を規定することができない。

私たちは規定不可能な存在であるのではと思います。

 

しかし、私が私を認知して、私の意識が私の体にある以上、私は私のものです。

そしてまたしかし、その私の意識についても、規定が不可能であるなと思っています。

 

先日、精神の風邪をひいてはじめて知ったのですが、私たちの感情は脳内の伝達物質の分泌量だとか活性だとかによって現れていて、例えば、不安なときに活性を下げる薬を投与されると、頭の働きが弱まって意識は容易に変化させられてしまうのです。

人間はただの意識の容れ物であり、意識はランダムにいくらでも変容するということなのだなと思います。

また、私たちはその内面のゆらぎについて、互いにあまり認知できていないのだと思います。

 

ここからは私の解釈になるのですが、私たちの気分は脳内分泌物の量とかバランスで決まっていて、

私たちが私たちだと思っているものは、

これはただの気分であり、事実とは別関係である。気分を決めるのは天気とか体調とかの要因で、事実とは別関係である。

ほぼ手綱を握ることのできない自己に関して、必要以上に責任感を持つ必要はないかなと思うようになりました。

 

 

ゆらぐ存在であり、他者の認知で規定される存在

どうこうするのはまず不可能だよな、と思う

 

 観測不可能な自身のゆらぎは恐るるものではなく、自然とそうあるものであるのだと思います。

そして、私たちはお互いにそれに気づくことなく日々触れ合っているのではないかと思います。

私たちの自我って思ってるよりも曖昧で意味がないんじゃないか。

私はそう解釈しています。なぜならそう思うと気が楽だからです。

 

特に、文章はほんとうのことだけを書く必要がないので、何者にもなれてオススメです。

思う存分独りよがりにゆらいでいきたいと思います。