終わった話

経過した事物

2022.10.01

野を超えて山を超えて、青森県立美術館に行って、『ミナペルホネン/皆川明 つづく』を観た。

「森」と題されたブースには、たくさんの服が木々のように展示されていた。
服を実用品ではなく、展示物として見たのははじめてのことだった。所有する選択肢を所有しないことは、いつも参加しているなんらかの競争から外れられたような気になれて、なんだか心地よい。
なかでもひときわ素敵に見えるコートがあって、それをしばらく見ているうちに、同級生のちょっとお金持ちのかわいいあの子が、いかにも学生風なダッフルコートでもPコートでもない、かわいい洒落たコートを着ていたことを思い出した。
入学した学校には、どのクラスにもそんな子が何人かいて、卒業するころには、学年の1/3くらいの子達はおおむねみんなめいめいに好きなコートを着ていた。
私も2年生にあがる頃には、制服を買った見せて見繕ってもらったいい値段がするPコートはクローゼットにしまい込んで、変な色合いの安物のマウンテンパーカのようなものを来て通学していた。

「風」と題されたブースでは、ミナペルホネンの服を着て日常を暮らす人々の映像を、ミナペルホネンの椅子に座りながら見ることができた。
人の入れ替わりに立ち会うタイミングがよく、部屋の中でおそらくいちばん豪奢な、さまざまな布がパッチワークされているソファーに座らせてもらうことができた。
触ってはいけない布をたくさん見てきたため、あの細やかな刺繍や丁寧に整えられた繊維にとても触りたくなっていたので、ここぞとばかりにソファの布地を撫でさせてもらった。するとなんと、触り心地までかわいい。それに、それぞれの存在がとてもしっかりしている。
ふと横を見やると、同行した人も自分と同じようにソファの表面を撫ですさっている。
自分達の前にソファに座っていたおばあさんが身体の横に手をついていて、もしかしていま身体がしんどいのだろうか、と思っていたけれども、おそらくあの人も手のひらから伝わってくるかわいさを愉しんでいたのだった。
みんな揃ってかわいい椅子の上に鎮座する私たちの目の前のスクリーンに映し出されたものは、いわゆる「ていねいなくらし」だった。
淡い緑の、邦画でしかみない光が降り注ぐ光景は、当たり前にうつくしくて、まんまと憧れた。

展示室にはおしゃれな人たちがたくさんいて、きれいに整えられた人たちからは、森に生えている草や木々をイメージしたであろう香水の、かたちづくられた香りがした。
その人たちのことを、この場に自分の存在感を連れてきていて、自分の存在感をお供に展示を観ているかのように思った。

最後のブースには、実際に数年間にわたって着用された服と、その服を所有している人のその服にまつわる記憶が展示されていて、かわいい同級生を思い出したコートに重ねられていた物語は私が思い出したあの子の姿とは全く異なっていて、当たり前だと思い、すこし安心した。


家に帰ってからは、同行した人とたくさん撮り合った写真を見返して、気に入った服を着ていったつもりだったけれども私だけかわいくないな、とか、そんなつまらないことばかりを考えていた。

2022.09.30

有休消化で、一日休み。

コンタクトレンズの定期検診を受けるために眼科に行った。

待合室で、八戸ブックフェスで購入した安達茉莉子さんの『私の生活改善運動 vol.3 −食べることは生きること?−』を読んだ。

安達さんの文章は思考と出来事とが流暢につながっていて、待合の間にするすると読み切ることができた。読み心地がなめらかな文章はいい文章だ。

真っ赤な装丁がかわいく、表紙の紙のざらつきもまた、表皮の指紋が接して位置を固定するのにちょうどよく、読み心地のなめらかさに一役買っているように思った。

発行・印刷・製本の本屋生活綴方さんでは出版する本をリソグラフで印刷しているらしく、ところどころ千切れてもはっきりと存在感を示すやさしい青色の字に、とても安心感があった。すこし斜めに印字されているページもあり、それもおもしろかった。

現代の、いつでもだれでも際限なく液晶上に印字できる文字環境は、なにか物を語るにはちょっと贅沢すぎるのかもしれない。

印字の手段や工程について理解を深めることで、もっと自分が発行する字に責任感を持つようになるかもしれない、と思った。

 

風はつめたいのに日差しがつよくて、運転する太ももが熱されて、午後はすこしうだった。

ショッピングモールには行く気になれず、道の駅で米といちじくを買った。

2022.09.28

 なんだかいけそうな気がして、ちょっと勇気のいる仕事に手をつけてみたら、イケて、よかった。いけそうなときはいってみてもいいらしい。あと、秋風が吹き抜ける青空の下だと、なんでもうまくいくような気がして、得だ。

 ポプ担さんの『ポップ担当日記』を読み進めている。今日読んだ部分は、メルヘンな感傷の肯定について述べられて、なんだか大人のための絵本みたいだ、と思った。
 

2022.09.27

 職場で雑談をしていたら思わぬ形で話題の中心になった、が、全然ゆかいな気分ではなくておもしろかった。誰の真意もよくわからないこの場で、軽々と中心に行ける人にちょっと憧れていたけれども、私が居たいのはそこではなかったらしい。

 風呂場で久しぶりにQUEENを聴いて、フレディーマーキュリーの声帯を通過してジェットコースターみたいに上下するメロディに大変愉快な気持ちになり、もしやここが世界の中心なのでは?という気分になったけれども、別にそんなことはなかった。と、髪を乾かしている間に気が付いた。

 八戸ブックフェスで購入した、木村書店のポップ担当さんの『ポップ担当日記』を読んでいる。ブースで見本を読ませていただいているときに、積極的かつ丁寧に本を紹介してくださっていた方が、ポプ担さんご本人でびっくりした。サイン本に名前を入れてくださるサービスを用意していてくださったのに、知らなかった人に知らない人の名前を書いていただくのが恥ずかしくなって、失礼ながらも名入れは遠慮してしまった。だけど、「でも、この場でいいと思って買ってもらったことが嬉しいです」と言っていただいて、これがこの本を描いた書店員さんの言葉なんだ、と思った。販促のおまけPOPには「ささやかな毎日のにぎやかなまんがです」とあり、素晴らしいことだなと思う。私の毎日も同じくささやかだけれども、そうそうにぎやかな日記を書くことはできない。日常のきらめきをきらめいたままに保存できる人のことを、すごいなと思うし、作家だな、と思う。

 ダメなんだけどなー、と思いつつもビールの栓を開けて、絹川柊佳さんの歌集『短歌になりたい』を読んだ。絹川さんの短歌は本当に格好いい。かわいくかしこく世を見ていて、すごいなと思う。短歌研究新人賞のことを知ってすぐの頃に、史上最年少で同賞を獲られたのが絹川さんだった。お元気でいらっしゃるだろうかと思っていたので、新しい本が出ていて嬉しい。

 ビールを1缶飲み終わる頃には、文字はただの意味になってしまって、それ以上何も読めなくなってしまった。

2022.09.26

連休明けの職場は、なんだかみんな怒っているように見えて、怖かった。

週末に買った本を読むことを楽しみに1日を過ごしていたが、夕飯を食べるとすぐに眠くなってしまって、たいして読めなくて悔しかった。

こんな時、みんなは無理して人生を楽しんでいるのだろうか。

2022.09.25

 八戸ブックフェスに行ってきた。同時に開催されていたホコテンがとても賑わっていて、いかにもフェス、の様相だった。そういえば、市(いち)とか街って、こんな感じだったんだった。盛岡に住んでいたときによく参加したよ市の雰囲気がこんな感じだった。
 フェス会場では、店主も客もその場にいる人たちはみんながちょっと変で、そして誰しもがすごく魅力的に見えた。それぞれがちゃんと考えて行動しているから、そう見えるんだと思う。考え方の違いがちゃんとふるまいに現れている。それはとてもいいことだと思った。
 盛岡で仲違いしてそれきりだった人も出店していて、散々迷ったあげくに挨拶をしに行って、うわー、とびっくりされた。来てもらえてよかったと言われ、来てよかったと思った。近況についてお聞きして、そうだったのか、と思った。近況について話して、それでいいんだ、と言われて、いいのか、と思った。東北の人は「いいんだ」を「い↓い↑んだ」と発音する。その「い↓い↑んだ」の音は、ただの「い↑い↑んだ」のそのままの意味に加えて、大丈夫、の意味合いを含んでいて、私はその田舎特有の連帯を表すやさしげな発音がとても好きだ。それで、仲直りをしたかったんです、と伝えることができた。また会おうねと言われて、また会っていいのか、と思った。人生が少し軽くなって、そのぶん気持ちと身体がふわふわした。
 歩行者天国の路上ではあちこちでさまざまなパフォーマンスが行われていて、堂々と立って堂々とした音を出す人、小さな身体でブレイクダンスをする人、渋い声で歌い上げる人、それに身体を揺らす人、規模は違えど、みんなめいめいに表現して、めいめいにそれを受け取っていた。それでいいんじゃん、と思った 。広くて明るく、多幸感が充満している路上で、私は私のままでいいし、私の人生をやるのだ、とわかった。誰かに受け取ってもらいやすいような形にわざわざ丁寧に加工する必要はなく、そのままでいいんだった。私は私の人生だけを持って、また誰かや彼かに会いに行っていいのだった。浮いた足取りで、八食センターで寿司を食べて帰った。

2022.09.24

 アルコールによる血管の緊張がもたらす頭痛を、昨夜から引き継いで起床した。こんな時は、「アルコールは人体の表皮から揮発するんだよ」と教えてくれた大学の先輩の言葉を信じて、朝風呂に浸かることにしている。ホテルの最上階に設置された大浴場には、おそらく私と同じような状態にある身体がたくさん浸かっていて、新鮮な光の中に夜の残滓の気怠げな空気が滞っていた。
 久しぶりの盛岡での朝ごはんは、大通り商店街のミッシェルで、ハムとトマトとマヨネーズのサンドイッチにチーズがたっぷり載っているどこよりも美味しいクロックムッシュを食べると決めていた。のにもかかわらず、洒落っぽい見た目に誘われて、キャロットラペのサンドイッチやプレッツェルクロワッサンなどを購入してしまい、いつまで格好つけて飯を食うんだろうと己を恥じ、ちゃんと落ち込んだ。イートインの無料サービスのカルピスを一杯飲んで考えて、クロックムッシュも追加で購入して食べたことで心身ともに事なきを得ることができた。食後の一杯は、格好つけずにコーヒーではなくカルピスにした。
 書店で三田三郎さんの歌集『鬼と踊る』を購入した。この前、どうしようもなく消沈していたとき、友人の薦めで久しぶりにゆらゆら帝国を聞いて、挑発的な音に促されて怒りをじわりと発露させることができた。そして、そういえば私はもっと怒りとかやるせなさとかを素直に言葉にしてもいいのかもしれない、と思った。盛岡に住んでいた頃、どうしようもなく仲違いしてしまった人がいて、結局、岩手に住んでいる間には仲直りすることができなかった。その人と仲違いしてから私は、意にそぐわないときに人は怒ることを知ったし、怒りを表明することが必ずしも排他的な振る舞いではないことを知った。それと、それまでの私はどんな相手にも対等であろうとすることが優しさだと思っていたし、互いに対等でありあおうとすることが愛なのだと思っていたけれども、それは自分で勝手に「対等」と名付けたリングに誰彼構わず引きずり出してタイトルマッチをしていただけで、いわばそれは試合ではなく暴力だった、ということがわかった。いや、それもすぐにわかったわけではなく、それから長い長い時間をかけて、わからされることとなった。
 昨日の道程をさかさまに、国道4号線を北上して、途中の道の駅いしがみで休憩して、二戸市シビックセンターの福田茂雄デザイン館で岩手ADCの展示を見て、十和田に帰ってきた。寝る前に、南部町のファームビレッジなんぶで買った梨を剥いて食べた。まだまだらな果面から想定していたよりも果肉は甘くて、特に一部分からはとても素晴らしい芳香がして、きっとこの上にくっついていた表皮は素晴らしく黄金色だったんだろうな、と思った。

2022.09.11

焦っていることに気がついた。

安定した仕事について、ある程度のお金が貯まって、新車を買って、ローンを組んで、なんだか自分自身も早く安定しなければいないような気がしている。

つまり、健全な精神を宿した健全な肉体を手に入れ、健全なコミュニケーションをとり、健全なコミュニティに属さなければいけないような気がしている。

 

仕事が繁忙で、しかしやればやるだけ成果は上がり、上がるならば上げなければいけないような気がして、上げ続けている。

速い車に乗って、アクセルを踏めば踏むだけ進んで、その速度に肉体と精神はついていけないでいる。

焦ると進むが、進むこと以外の大切なこと、例えば優しさとか思いやりとかを失ってしまうような気がする。

いや、公道の動向を見る限り、それは違いないような気がする。おおむね、速い車は怖い。

 

私は、ひとり置いていかれることが怖いし、背中に張り付かれるように追われることも怖いが、かといって、速い車になることも怖い。

2022.03.15

仕事の調子が出たので、調子に乗った。

 

ここのところ慢性的にねむくてだるい。

春の瘴気がそうさせるのかもしれない。

あかるくて、あたたかくて、うかれていて、いかれている。

冬の冷静さに対義する興奮にめまいがする。

はやく異様なピンク色の花びらの下で酒を飲みたい。

2022.03.07

好きな人が夢に出てきて、実寸よりもでかい体でドアを破壊しまくっていた。

もう一度寝たら、今度は以前働いていた職場を訪問する夢を見た。

かつての同僚たちに思いの外暖かく受け入れられてホッとしたものの、もっとも信頼していた人にいま自分がしている仕事の矛盾を鋭く指摘されて、ハッとなって目が覚めた。

 

起きてからは、頭がおかしくなって落ち込んでいた。

職場に行って業務を処理していたら正気に戻っていった。

いつもだったらこんな場所、イカれていると思うのに、どうやらいまはそちらの方がシラフらしい。

 

いつもの平日は仕事と生活以外の活動をする事が何故だか怖くてできないのだけれども、今日はあえて夜にテレビを観たり、本を読んだり、音楽を聴いたりしてみた。

これらの活動はあまりにも面白くて、私はシラフの私と整合性が取れなくなるのが怖いのだと思う。

私はいつも意味のことばかり考えている。そんなことをしても意味はないのに。

日記は書けなかった。あまり自分に対して客観的になれない。

2022.02.21

暴風雪の日。

すべての物体に微小な氷が張り付いていて、足首よりも下は氷溜まりに浸かっていて、何を触っても、何処に行っても、何をしようとも冷たい。

冷えた指先から感覚がなくなる速さと、生きていく気力が失われていく早さはほぼ一緒だと思う。少なくとも、私にとってはそうだ。

 

あれだけ蓄えた(と思っていた)余裕はどこへ行ったのやら、職場についたらまた動悸が止まらなくなった。

以前勤めていた職場とその前に属していた研究室では脅かされる日々を送っていて、その頃に決定的に心身の反応がおかしくなって以来、ちょっとした不安の予感だけで同じ状態に陥ってしまうようになった。

いま私は脅かされてはいないと頭ではわかっているんだけれども、それはそれとして、いま私は心臓がいたくて息はどう吸うんだっけ、の混乱。

こんなの本当に意味がない、と思ってからは、続けることをやめるか、やめることをやめるかの二択で、後者を選んではいるものの、別にその選択にも意味はないと感じる。

問題は、いまたしかに私がそう感じることと、いつかの自分がどう感じるかの間には、なんの関係もないということだ。

ということは、あまり不可逆な選択はせず、なるべく可逆的であったほうがいい。その合理性だけで不合理な判断を続けている。

 

家に帰って、やけくそで身体を温めて、飯を食ってお茶を飲んでクッキーを齧って、そういえば今日は暴風雪の日だった、と思いだした。

家の中は外とは比べ物にならないくらいに平穏で、ここにいさえすれば何の問題もないのに、と思う。

たぶん、私はまだ窓の外にいる。

2022.02.20

いっそ何もしなくていい、となるとかえって気が楽になり、お湯を沸かしては茶を淹れてちゃんぽんし、時折外を歩き、本を読み散らしながらゆっくりと日記を書いた。

 

日が暮れきる前に、先週買った花束を花に分解して、短く切り戻して生け直してやることだけはした。

2022.02.19

朝から晩まで二日酔いのような日だった。

昨夜の終盤、余計に口をつけた日本酒が効いてしまった。

これは例えだけれども、秀逸な文章は過不足がなくて、私はいつも一言余計だ。

 

身の回りの状況が、いよいよ外出がはばかられるような雰囲気になってきたので、掃除と買い出しだけをしてあとは部屋の中で大人しく過ごした。

食品棚と冷蔵庫を整理してスペースを空けて、レトルトカレーも、缶詰も、酒も、生肉も、キャベツも、いつここから出られなくなってもいいように、いつもの2倍の量を買う。

こうやって安心しているだけで、免疫がちょっと上がるような気がする。

 

娯楽も買っておいた方がいいんだろうか、と思って、無性に最新型のゲーム機が欲しくなった。

もうずっと、ここではない、広くて遠くて自由などこかに行きたい。

ちょうど、最近発売されたばかりのポケモンの最新作がそのような作品になっている、と友人が教えてくれて、俄然興味が湧いた。

やっぱり、いまはみんなそういう気持ちなのか

もしれない。

自分の思い通りになる世界に行きたいなと思ってしまう。

 

夕飯に作った長芋を入れたお好み焼きがもちもちとして美味しくて、2/3を食べて1/3を冷凍庫に入れた。

これまでもそうだったけれども、これまでよりも格段に先の見通しのつかない(ような気がする)世界に来てしまった。

飯をつくることと食べることだけはわかるし、できると思う。

2022.02.18

存外気分がよく、愛想よく過ごした。

職場の荒れも昨日でひとまず落ち着き、次の荒れは週明けだろう。

 

退勤後、常夜鍋を作っては食べ、作っては食べ、止めどきがわからなくなって、山盛りのほうれん草と豚肉を平らげてしまってお腹がふくれた。

何かをごまかすように(その何かに思い至る前に)、さっさと酒を飲んで、勢い余って飲みすぎて潰れた。

帰り道のローソンで買った鮭皮チップスをつまみにしていて、こたつでうとうとして起きると、不思議なことにあれだけひどかった手荒れがすっかり治まっていた。

パッケージを見ると、内容量14g、コラーゲン含有量8000mg(=8g)の記載。

これって、すごいな、これのせいでは、いや、そんなことあるの?

こんな食品ってあるんですね、と思いながら、また意識が遠のいていった。

(※翌朝、パッケージを再度確認してから書いているので、嘘ではないです。こんな嘘みたいな食品ってあるんですね。)